0.度量衡

1.アハーンなる世界

2.アハーン大陸中原
 2−1 ゴナ砂漠
 2−1−1 南部地域
 2−1−1−1 ヤカ・カグラ
 ●ヤカ・カグラの代表的な匠合
  1) リアラ・ベカラグ
  2)ヤン・デマイジン
  3)フラグ・ドウシャ水匠合
  4)フリーヤ・カナグ
 2−1−1−2 ハムル・ラバル帝国
 2−1−2 西部地域
 ●ホータンとその伝説
 2−1−3 ゴナ砂漠中央部
 ●ゴナ砂漠の代表的な集落
  1)グラバン集落
  2)トゥエンナグ湧水地
  3)ボーモトナト集落
  4)ウロルナト集落
  5)ティンガ・サ集落
 2−1−4 東部地域
 ●ゴナパラム遺跡
 2−2 カッチャナラ大森林
 ●カッチャナラ大森林の代表的な集落
  1)トレブン・シギア村
  2)ボルトナダル集落
 コラム:封都

3.中原の歴史(編集中)
 3−1 中原史概論
 3−1−1 創世記
 3−1−2 古代の中原
 3−1−3 中世の中原
 3−1−4 近世の中原
 3−1−5 近代の中原

聖刻の大地・中原地誌

0.度量衡
 距離:1リット=約4cm/1リート=約4m/1リー=約4km
 重量:1グラン=約1.2g/1グレン=約1.2kg/1グロー=約1.2t
 容積:1ガロム=約1L
 時間:1刻=約2時間(半刻=約1時間、四半刻=約30分 刻以下の単位は存在しない。そういう時間感覚ということ)

1.アハーンなる世界
 アハーンと呼ばれる大陸がある。
 東西に広く伸びるこの地には、大別して3つの人間の暮らす領域がある。
 1つは〈東方〉。未だに魔道が生き延び、混沌と呪術によって支配されるという世界である。もっともこれは現段階では風聞に過ぎない。
 もう1つは〈西方〉。鉄と人の技によって栄える世界である。理と科学によって治めらるこの地では、神秘主義などとうの昔に滅んだようだ。完全なる人の世界、それが西方である。
 そして最後に〈中原〉。ゴナ砂漠と呼ばれるアハーン最大の砂漠地帯を中心に、西はロード平原から東はカーランカ山脈、そして大河アグ、北は東西に長く横たわるカッチャナラ山脈、南はレアーシボ西岸からシャクティ地溝、キャクチャス海岸に囲まれた広大な地域である。
 ここでは、最後に紹介した中原について、その概略を解説し、この地域で起きている事件や社会情勢、新たな物語を創造するための方法の手引きを紹介する。

2.アハーン大陸中原
 中原は広大な世界である。この地域を象徴するものに東部の〈ゴナ砂漠〉があるが、実際にはこれに加えて、南北に走る中央山嶺に隔てられた〈ロード平原諸国〉と、〈交易路周辺地域〉がある。
 特に、交易路周辺は昔から中原を語る際に持ち出される土地で、ゴナ砂漠周辺に位置する場所もあるため、これがゴナ砂漠そのものであると誤解されることも多い。

2−1 ゴナ砂漠
 中原の代名詞とも呼べる中央〜東部の砂漠地帯は、ゴナの名で知られる。
 ゴナ砂漠は、南からの熱風が吹き込んで逃れられない地形的特徴から、暑熱の激しい地として知られている。冬場もそれは変わらず、夏場ほどではないが、昼間は他の地域では真夏と呼んでいい気温にまで上昇する。
 ゴナ砂漠は大別して南部、西部、中央部、東部の4つの地域からなる。
 中央部からカッチャナラ山脈山麓にかけては夜間の冷え込みも厳しく、夜間の気温が氷点下にまで下がることも珍しくない。
 砂漠中央部では、人間の居住地は砂漠内に点在する10か所ほどの湧水池を中心とした集落だけである。このうち有名なものに、グラバン、トゥエンナグ、ボーモトナト、ウロルナト、ティンガ・サなどがある。
 砂漠には大型の生物はいないと言っていいが、稀に異常なまでに巨大な(2リート=約8メートル近い大きさ)爬虫類や節足動物の類が見られる。
 生命活動を維持するための食物がほとんど存在しない砂漠で、このような生物が繁殖している理由はわかっていないが、一説には古代の遺物だとも言われている。
 この地は7割ほどが砂砂漠で構成される。残り3割が岩砂漠ではあるが、それは南の地域に集中している。
 この場所で一番貴重なものは水である。生活用水や飲料水のほか、後述する操兵が大量に必要とするためである。

2−1−1 南部地域
 一般にゴナ砂漠南部とされる、オ・ルサンテ山地の南、街道と接している地域は、ヤカ・シュバリ・インドリ地方と呼ばれる。特に、大街道(カグラ)近辺はヤカ・カグラと呼ばれ、多くの宿場町が集中するゴナ砂漠で最も活気ある地域だろう。
 ヤカ・カグラ東部は、ハムル・ラバル帝国と呼ばれる国家の版図の一部となっている。ゴナ砂漠の南東端に当たるハムル・ラバル西部は、遊牧民の暮らす乾燥した草原地帯である。この地域は、名目上帝国領となっているが、実際は帝国東部とは人種、民族の異なる地であり、多くの遊牧民たちによって実質の支配がなされている。

2−1−1−1 ヤカ・カグラ
 この地域には、東西を結ぶ交易路〈大街道(カグラ)〉が通っている。
 ヤカ・カグラは、この大街道に沿って東西に広がる地域の総称である。街道上には宿場町がいくつも存在し、取引される商品ごとに商人や職人たちが集まって専門の集落が形成されている。
 例えば鍛冶師たちの集まる鍛冶師街はほぼ宿場町ごとに存在し、通常の金属製品のほか、操兵の整備や修理、取引を行っている。
 それぞれの集落には、その職能に応じた匠合なる組織が存在する。要するにこれは協同組合だが、鍛冶匠合はちょっとした都市なみの権力を持つ場所もある。
 それぞれの匠合は、同じ職能の組織であっても横のつながりは薄い。

 宿場の大半は、水源の存在する地点とほぼ一致するが、多くの宿場では慢性的に水が不足した状態にある。このため、街道筋では水を巡って争いが頻発しており、その調停を目的に組織されたのが〈水源組合(水匠合)〉である。
 この地域は、前述の協定により、国家による支配ができない状態にある。このため、宿場町はそれぞれに独立した存在となっている。だが、宿場町には定住者が少なく、血統や家柄による支配が弱い。結果、最も必要とされる「水」を支配する組織がその頂点に立つのは必然の流れだろう。
 宿場には、もうひとつ大きな力を持つ組織が存在する。〈鍛冶匠合〉である。
 アハーン大陸最強の武具であり、乗り物である〈操兵〉を作り出し、補修する技術を持つ職人たちの組織が、大きな発言力を持つこともまた必然である。
 ただし、操兵の運用には大量の冷却水が欠かせない。このため、多くの場合、水源組合が鍛冶組合より強い発言力を持つ。水源組合が替えのきかない水資源を権力の背景に持つのに対して、操兵は鍛冶組合以外にも供給可能な人間が存在するためである。
 むしろ、昨今は水源組合が操兵鍛冶を多数雇い入れ、鍛冶組合に近い組織を内部に抱えている例もある。
 いずれにしろ、操兵が軍事の要である点にかわりはない。水源匠合は、操兵とともに操兵の乗り手(操手と呼ばれる)を大量に雇い入れ、宿場の規模から予想されるよりはるかに大きな兵力を保有していることが多い。

 この地域全体を治める国家は、少なくともこの数世紀の間存在したことはない。これは古の協定によって、特定の国家による支配が禁じられているためである。
 この地域を迂回して、東西交易を行うことは不可能だった(北は山脈に囲まれた砂漠、南には南方大陸と呼ばれる大地が存在しているため。南方越えの海路を取ると、西方に到達するには余分に数千リー――これは大げさな値ではない――の航海が必要になる)。このため、東西の勢力が中原に進出して以来、この地域をめぐる争いが絶えず、時のホータン王(白き王の異名で知られる)によって仲裁がなされたと伝えられている。

 ヤカ・カグラの街道上にある、唯一にして最大の都市がミナルゴである。
 ここは、古代の城塞都市の上に築かれた町であり、宿場町としての機能の他に、工業製品や農産物の集散場としての役割も負っている。
 なにより、この都市は非常に大規模な水源の上に築かれており、周辺の宿場町より比較的安価なこの地の水を求めて、多くの操兵乗りたちが集まってきている。
 ミナルゴの水源は、この町の統治者であるガシキ家によって管理されている。もともと、ガシキ家は一介の商人の家系にすぎなかったが、ミナルゴで傭兵の斡旋業を創業し、これが大成功を収めて、莫大な富を築いたと言われている。以前はミナルゴにも水源組合が存在したが、ガシキ家はその財力と自ら雇った傭兵を水源組合に送り込むことで組織を傘下に収め、都市全体を支配することとなった。
 ガシキ家による傭兵産業は現在も続いており、多くの優秀な傭兵が各地に送り出されている。

●ヤカ・カグラの代表的な匠合
1) リアラ・ベカラグ
 ヤカ・カグラ中部の代表的宿場町のひとつ、ベカラグの水源組合。
 ジャキシ・ブルエという人物が長を務める。かなりいわくつきの人物で、組合の人間も武闘派で固められている。街道筋のもめごとの半数以上で、このベカラグの名前を見ることができる。
 数十機の操兵と乗り手を抱えており、近隣でも最大の戦力を誇る。

2)ヤン・デマイジン
 ヤン・シバルニ集落の水源組合。ヤカ・カグラ南東部に位置する。
 この集落は街道から南に3リーほど下った地にあり、宿場町として拓かれたものではない。ただし、この地域でも随一の水量を産出する湧水池が集落の中心に存在するため、この水を求めて近隣の人間が多く集まってくる場所になっている。
 特に、大量の水を必要とする操兵鍛冶たちは、近隣で石炭や砂鉄、鉄鉱石が産出することもあって、数百人単位でシバルニに移動してきている。
 デマイジンはこの集落の水源を一手に独占する匠合である。ただし他の水源組合とは異なり、紛争の解決に武力を頼ることは少ない。これは、シバルニ集落が天然の要害とも呼べる地にあることと、匠主テベ・ヘ・デマイジンとその側近たちが高度な交渉力の持ち主であることが大きい。
 このため、デマイジンの保有する戦力は決して小さくはないが、交渉を可能にする最低限のものでしかない。かのベカラグでさえ、デマイジンとは表立って事を構えようとしないという事実が、この匠合の力のほどを示しているといえよう。

3)フラグ・ドウシャ水匠合
 ヤカ・カグラ東部、ドウシャの街にある水源組合。
 ドウシャという街自体が千年以上の歴史を持ち、伝統的支配階級が存在する。フラグ・ドウシャは、ドウシャを支配するキノ=ザ・ドウシャ公家の組織したものであり、水源の他、操兵鍛冶や塩、香料の類を一括して統制する。
 現在の当主はウルハレ・ドウシャ。若い頃は街道を往来する隊商に加わり、操兵を駆ったこともあるという行動派の人物である。お忍びで街中に出て、庶民の暮らしについて見て回っているという噂もある。

4)フリーヤ・カナグ
 街道筋の西端に位置するフリーヤの宿場の水源匠合。
 ナゼア・イギア連合に接するためもあって、西方諸国の影響を色濃く受けている。街道筋ではもっとも統制のとれた軍事組織を持ち、これはロード平原以西の先進諸国に範をとったものである。
 主な特徴は、組織に階級制を導入したことと、それに基づく賞罰の制定である。これらの制度は現状うまく運用されているようで、カナグ騎士団(大国における軍事組織の呼称)は規模の割に強力な軍事力を持つことで知られている。

2−1−1−2 ハムル・ラバル帝国
 かつてフラバルと呼ばれた国の末裔たちが興した国家、それがハムル・ラバル帝国である。一時、東方域の混乱の煽りを受けて滅亡の憂き目にあったものの、2世紀前、ハムル・クランパタなる人物が挙兵し、10年にわたる戦いの末、ついに父祖伝来の地を取り戻したという。
 再興を果たしたフラバルは、ハムルを皇帝として新たにハムル・ラバルと国号を変え、現在に至っている。
 ハムル・ラバルは遊牧民の国家であり、定住者は東部の都市部に集中している。現在の帝都はラバル・フラバル(旧名オレインコ市)だが、現皇帝オニシオ=アエは西部の平原地帯を放浪しているという。
 ハムル・ラバル帝国を特徴づけるのは、やはりフラバル時代からアハーン全域で流通している貨幣であろう。ハムル・ラバルの金貨は、現在でも国際経済の基本とされている。金の純度が高く、その組成にもほぼ変化がない。貨幣の鋳造、刻印にも特殊な技術が用いられており、他所では容易に偽造できないものになっている。
 一般的な金貨に比べ、ハムル・ラバル金貨は1.2倍の価値を持つ。中原の粗悪なものに比べると、倍近い値付けとなることもある。

 ハムル・ラバル帝国は、東方との交易の窓口となっている。しかし、多くの商人たちは、東方奥地でなければ入手できない品々を求め、さらに東に向かうのが普通である。帝国はこれに高額な通行税をかけ、その収益は歳入の半分以上を占める。
 かつて東方は魔道の地などと呼ばれ、旅をするだけでも命がけと言われているが、もちろんそれは単なる風評にすぎない。また、よく言われるように、東方で中原や西方の操兵が動かなくなるという事実もない。
 このほか、オ・ルサンテ山脈の鉄鉱山、カーランカ山脈中部の銅、銀鉱山と、石炭は帝国の大きな収入源である。金鉱も存在するようだが、位置は明らかにされていない。

 ハムル・ラバル西部には、街道上以外に大きな都市は存在しない。この地域の人々はほぼ遊牧民で、移動型の住宅を用いて非定住の暮らしを送っている。彼らは生涯を草原で送ることがほとんどで、世間ずれしておらず、旅人にもおおむね好意的である。そのかわり、彼らは貨幣経済を知らないことが多く、常識的な感覚で商取引を行うことは困難だろう。
 遊牧民の中には、特別に優れた身体能力を持つ民がある。ハル・チョザンカと呼ばれる彼らは、伝統的に帝国に仕え、諜報や暗殺を生業としている。この民は常に移動し、帝国上層部以外に所在を知る者はいない。

2−1−2 西部地域
 砂漠の西部地域は、西部平原と砂漠を隔てるリンガ・ナ山脈から、南は古王国ホータン、北はカッチャナラ南山麓、東は砂漠の中央部にまで至る広大な土地である。
 この地はほぼ岩砂漠の広がる領域で、ホータンと点在するオアシスを除けば、特筆すべき場所はないと考えられてきた。
 だが、昨今の探索によって、多くの古代文明の痕跡が発見されつつある。多くは真の意味での遺跡に過ぎないが、現在も稼働する古代の機械の類を残すものわずかに残されている。とはいえ、現存する古代の封都のように、現在も稼働する飛空挺や古代の操兵が発見されたという報告は、いまのところないとされている。

 西部地域では、山麓沿いにいくつか人間の集落を見ることができる。
 このうちイルガナ・アバシア集落は、アバシア湧水池を中心とする比較的大規模なもので、出所不明の鉱物資源や物品の交易所となっている。出所不明とは文字通りの意味で、出所のわからない資源や物資、貴重品などが持ち込まれ、取引されているということである。この中には、操兵の素材となる仮面やその礎型なども含まれる。また、ごくまれに聖刻石が売られることもあるという。
 こうした物品の取引は、通常の国家の領域内では厳しく制限が設けられているが、イルガナ・アバシアのような辺境地域では、ほぼ無制限に行われている。
 したがって、希少品を手に入れるため、砂漠を渡ろうとする人間は少なくない。だが、道案内なしでは生きて目的地に到達することは不可能とされていて、案内人は莫大な案内料を請求してくるのが常である(そもそも、砂漠を渡るための費用そのものが、案内料などはした金に思えるほどの金額になるのだが)。
 また、こうした旅では目的地への最短距離を取ることは難しい。なぜなら、途中の集落などで補給を受けなければ、過酷な砂漠を渡ることは困難だからである(したがって、経路によっては操兵を持ち込むことも不可能ではない)。逆を言えば、どんなに奥地にあろうと、名前の知れている場所には、かならず行き着く経路があるということでもある。

●ホータンとその伝説
 ホータンは、2000年以上の歴史を持つ非常に古い国家である。遥かな古代、西方のラウマーナ帝国の東進王によって興されたと言われ、白き王なる人物の時代に隆盛を極めたとされている。
 現在の王都はリンガ・ナ山麓のリグムルアだが、本来の都は古代遺跡で有名なアラクシャーにあったという。かつて、この地には白亜の塔と呼ばれる巨大建築物が存在したが、現在その名残を見せるのは、遺跡の中心に口を開ける巨大な縦穴のみである。
 現在のホータンは、牧畜とわずかな鉱物の産出で成り立っている。軍事力は皆無で、この国が他国の侵略を受けずにいるのは、古の盟約と、砂漠気候が軍勢の侵攻を阻んでいるおかげである。

2−1−3 ゴナ砂漠中央部
 砂漠中央部は、不毛な砂砂漠の地である。
 点在する湧水地を除けばここに定住する人間は皆無と言っていいが、西部や北部の集落から東部、南部地域へ定期的に移動する人々があり、そうした人々に遭遇する可能性はありうる。
 彼らは大規模な移動用住居を使用するため、宿営地は小規模な集落の様相を示すほどである。夜間なら、その灯火はかなり遠くから視認できるという。
 ただし、荒天の多くなる夏季から晩秋にかけてと冬季には、こうした集団の移動さえ見られなくなる。このため、この時期に砂漠中央部に踏み込むことは、自殺行為と考えてよい。
 また、いかに大規模な集団であっても、途中湧水池などで補給しなければ砂漠を渡りきることは不可能である。このため、こうした砂漠の民の移動経路は自然と決まったものとなり、多くの場合目印が存在する(天然の岩山や、湧水池周辺の変化しにくい場所に設置された塔や旗など)。
 こうした目印は、砂漠の民以外の旅人も利用している。

●ゴナ砂漠の代表的な集落
1)グラバン集落
 中央部の砂漠地帯のほぼ中央に、いくつもの巨大な岩山が折り重なるようにして囲まれた土地がある。発見者の名をとってグラバンと呼ばれるこの地は、場違いなほど豊かな水と、草原地帯からなる。
 グラバンの地は、他の地域と完全に隔絶した場所である。岩山の間には深い地溝があって、そこには時間から取り残された古代の生き物が生息していると言われる。こうした生き物はめったに姿を見せず、また比較的おとなしいと考えられているが、地溝の探検に向かった人間で、生きて戻った者はごくわずかである。生き残った人間は、運よく地下の住人に出会わなかった者ばかりだと考えられている。
 地溝の生物を除けば、この地は平穏そのものである。古代の遺跡も存在せず、湧水とそこに住む生き物だけで完結した環境は、この地に独特の生態系を発生させた。特にこの地に生息する地虫や地菌類、ある種の草木には、いままで不治とされた病の特効薬になるものもあるという。
 グラバン集落はこの土地の南端にあり、内部の貴重な生態系を保護する役割も担っている。この土地へ到達するには非常に困難な旅が必要になるが、不老不死さえ実現するという生物を手に入れるため、多くの医師や山師たちが命がけでその旅路に挑んでいるという。

2)トゥエンナグ湧水地
 砂漠中央部の北西端に位置する湧水地。中央部外縁の岩山にほど近く、奇跡的に天候が穏やかで安定した地になっている。
 砂漠の外縁部にあるため、交通の便は比較的よく、砂漠の旅の足がかりの地として利用されている。土地はそれほど広くない(半径100リート程度)が、街道の宿場町もかくやと思われるほどの街並みと賑わいとなっている。
 こうした土地柄もあって、トゥエンナグは西部のイルガナ・アバシアに匹敵する商品の集散地になっている。街道からの距離が西部よりも大きく、カッチャナラ山脈に近い立地のため、この土地で扱われる商品は、辺境向けのもの(生活用品、保存食など)が多くなっている。

3)ボーモトナト集落
 砂漠の南西部に位置する、ボーモトナトの名を持つ巨大な砂丘の影にある村。長期的には砂丘の移動で消滅する運命にあると考えられている。
 ボーモトナト砂丘は、高低差200リート、幅数リーある砂の山脈である。砂丘はわずかの期間に姿を変えていくものだが、このボーモトナトはこの数十年、現在の形でほぼ安定している。これは、この地域の気流が安定していて、大規模な嵐の起きる周期が十数年おきだからだと考えられている。
 加えて、この集落の周囲には3つの湧水池があり、狭いながら緑地帯を形成しているために、多少砂が流れ込んでも繁殖力の強い植物が集落を保護しているからである。
 湧水地としては比較的不安定であるため、この地に定住する人間は少ない。ただし、グラバン集落への唯一とも言える水の補給が可能な中継地であるため、集落は廃れることなく維持され続けている。

4)ウロルナト集落
 砂漠の南東部に存在する巨大な一枚岩、ウロルナトの上に築かれた集落。
 ウロルナトには、長年の浸食によって内部にいくつもの隙間が生じ、住民たちは、そこを染み上がってくる水を汲み上げて用水としている。
 集落への道は狭く、経路も限られるため、村に操兵を持ち込むのは非常に困難である。通常、旅人たちは操兵や大型の荷役獣の類は下に置いてこなければならない。
 ウロルナト集落は基本的に自給自足が可能で、外部からの訪問者はあまり歓迎されない傾向にある。それでも外部の人間を受け入れているのは、そのままでは長期的に集落の運営が困難である(ウロルナト集落は住民の平均年齢が比較的高い)ことと、作業用に使われている操兵の維持、管理のためである。
 ウロルナトでは、グラバン集落でしか見られない〈ソボル〉なる植物が栽培されている。ソボルの栽培に成功しているのはウロルナトだけで、これはその環境がグラバンの一部に非常に近いためである。
 天然のソボルに比べると薬効は劣るが、精製すると病中病後に効果の高い強壮剤が得られ、この薬を求める人々が多く訪れている。
 ウロルナトは、グラバン集落に比べれば街道筋から比較的容易に到達可能な経路(平均2週間程度)がいくつか存在する。ただし、途中に水源が乏しく、大きな集落も存在しないため、備えを万全にした大規模な集団で向かうのが普通である。

5)ティンガ・サ集落
 この古代語の「凍りつく池」を意味する名を持つ集落は、砂漠中央部からカッチャナラ山脈に向けて数十リー北上した位置に存在する。
 その名の通り、この地は常に氷点下の環境にさらされる過酷な地である。日差しのある昼間は比較的暖かくはあるが、北からの冷気によって日が沈むと同時に凍える寒気に覆われる。
 集落に接するように、ティンガ・サ湖が広がるが、この最大幅100リートの湖は、常時10リットを超える厚さの氷に覆われている。従って、湖は徒歩で渡ることが可能である。厳寒期なら、操兵でさえ通行可能だろう。
 ティンガ・サ集落へは、街道から向かう人間は皆無に等しい。ここはカッチャナラ山麓の人々との交易によって成り立っている場所で、使われる言葉も北部の訛りが強い。
 ただし、この近くには希少鉱石を算出する露天掘りの鉱脈が存在すると言われ、実際、街道筋では入手が不可能な鉱石が扱われていることがある。この噂に惹かれて、無理を押して集落を訪れる人間もいるという。
 街道筋からこの地へ至るためには、カッチャナラ山麓の集落経由で南下するか、グラバン集落経由で北上するかどちらかの経路しかない。また、この集落の周辺には、正体の知れない巨大生物が出没するという噂がある。

2−1−4 東部地域
 カーランカ山脈山麓に、南北に細長く広がる地域をゴナ砂漠東部と呼ぶ。
 古代、多くの国家が栄えた土地ではあるが、現在は打ち捨てられ、そうした古の国々の名残となる集落が点在するのみである。
 これらの古き国々は、過去のほぼ同じ時期に滅亡したと考えられている。こうして名残を見ることができる場所はまだいい方で、ヤカ・シュバリ・インドリ地方の伝説では、跡形も残さず消えた国家がいくつも存在したという。
 このため、過去のある時点でなにが起きたのか、熱心に研究を続ける者たちが、この東部地域に多く集まっている。

●ゴナパラム遺跡
 東部地域で最も有名な遺跡が、北部に散在するゴナパラムと呼ばれる遺跡群である。
 ル=ゴナ、あるいはウル・オ・ゴナの名が伝わる古代国家の数少ないものと考えられている。
 興味深いのは、ここでこの時代の操兵がいくつか発見されていることで、現在のものよりも頭頂高で半リート以上大きく、機体の構造も大きく異なっているらしい。
 多くの鍛冶師がこうした古い機体を起動させようと試みたが、成功したという話は伝わっていない。発掘された古操兵の仮面はすべて失われており、現在の仮面で代用しようとしたが、そうした仮面はほぼすべて機能を停止したか、大きく力が弱まってしまったと言われている。

2−2 カッチャナラ大森林
 中原北部に広がるカッチャナラ山脈は、東西千リー以上に及ぶ大山脈である。この山脈より北は北方と呼ばれる異境の地であり、その詳細は明らかになっていない。わずかに知られているのは、カッチャナラ以北にはアレビス大森林と呼ばれる針葉樹林からなる広大な森林地帯が存在することだけである。この森林の存在もカッチャナラの尾根から確認されているというだけで、少なくとも生きている人間がこの山を越え、アレビス森林にわけ入って戻ったという実例は知られていない。
 カッチャナラ大森林は、山岳地帯の南側に広がる森林地帯の総称である。南に砂漠が迫っているため、森の南北の幅はわずか数十リーにすぎないが、東西千リー以上の幅を持つため、その広さは大陸最大であると考えられている。
 気候は過酷と形容するのがふさわしく、夏季は砂漠に近い気温まで上昇することもあるが、夜間や降雨時は氷点近くまで降下し、冬季は氷点以上になることが珍しいほどである。
 水は潤沢に得られるが、この地域に多い露出した鉱床のために地表の水は多くが汚染され、飲用には濾過が欠かせない。
 このように生活するには厳しい環境ではあるが、この森林地帯にはいくつか集落が存在する。主要産業は鉱床の採掘で、他の地域には存在しない貴重な鉱物が産出する場所もある。

 この地域には、砂漠よりも多くの危険な生物が生息している。カリュウやビカンの名で知られる獣は、非常に攻撃的かつ強力な生物で、出会った場合、操兵がいなければ、逃げる以外の選択肢はあり得ない。幸いなことには、こうした厄介な生物はなんらかの遺跡や鉱床のそばにいることがほとんどで、そうした場所に近づかなければほぼ遭遇することはないとされている。
 しかし、その他の比較的脅威の小さい生物は、森林にいる限り日常的に遭遇すると考えるべきで、少なくとも丸腰で動き回る愚を冒してはならないだろう。

●カッチャナラ大森林の代表的な集落
1)トレブン・シギア村
 トレブン、シギアの両村が合併した集落。この2つの村の間には、希少鉱を産出する露出した鉱床があり、それが両村を長い間にわたって対立させてきた。
 両村が和解を見たのは、半世紀ほど前のことだと言われる。以来、両村は中央の露天鉱山からの収益で、この地域最大の集落へと発展している。
 とはいえ、その規模は大街道の宿場町程度のものなのだが。
 この集落には小規模ながら鍛冶匠合が存在し、独自の操兵を作り出している。周辺地域で使われている操兵は、ほぼこの集落のものと考えていい。

2)ボルトナダル集落
 この集落の近くを流れるボルトナダル川は、砂金や微細化した希少金属が採れることで有名である。この集落は、川で鉱物の採掘を行う人々が集まる場所で、その多くは文明地域に居場所を失った犯罪者などである。
 また、ここには、中原西部の大国から派遣された商人が出入りしている。このため、ボルトナダル集落は西部との非公式な窓口ともなっており、中原の多くの国家、あるいは有力な都市の非公式外交の場ともなっている。
 集落の規模は小さい。狭い範囲に多数の買取所がひしめいていて、酒場兼宿泊所の建物が1軒あるだけである。生活物資はほぼ毎日立つ市で贖うことになる。

コラム:封都
 ゴナ砂漠には、〈封都〉と呼ばれる孤立した都市がいくつか点在している。
 封都とは、太古の技術的遺産が生きたまま取り残された場所である。その位置や規模はまちまちだが、建築物の意匠はほぼ一致しており、技術遺産も同一のものであることから、そのすべてが砂漠に栄えた古代文明の遺構であることはほぼ間違いがないとされる。
 封都には、現在のアハーンには他に存在しない遺物がいくつも存在している。〈飛空挺〉などのように、都市から持ち出すと稼働しなくなるものは別としても、高品位な素材(純度の高い金属、高強度の陶器、鉱物など)や、医薬品、火薬などが現在も多く持ち出されている。どうやら、封都内にはこうした物品を生産する場所が存在し、現在も稼働し続けているようである。
 このため、封都をめぐって多くの勢力が争いあっているが、こうした都市は砂漠の難所に位置するため、その実益に預かった勢力は多くはないとされている(封都への経路を占有できたとしても、物品の搬出そのものが容易ではない)。
 現在は、封都の遺産を手に入れるためというより、他の勢力が自分たちよりも優れた素材や物品を手に入れることを警戒して、という側面が強いようだ。

 封都のほとんどには、〈ツキヨミ〉と呼ばれる管理者の一族が暮らしている。彼らは封都の遺産に関する知識を持ち、略奪を目論む侵入者に対して不寛容に接するという。かつて、ハムル・ラバルの一豪族が操兵の大集団をもって封都の一つを襲撃したという(どのようにしてゴナの砂砂漠を渡ったのかは不明)が、抵抗しきれないと判断したツキヨミたちによって、封都は機能を停止され、放棄されたという記録が残っている。いったん機能を停止した封都は、数日のうちに砂漠に埋もれ、数世紀が経過したと考えられる現在、その位置を特定することすら困難だとされている。
 例外的に、ツキヨミが存在せず、仮面を着けた集団によって管理、運営されている場所があると言われるが、その詳細は不明である。一説には、こうした場所を支配しているのは〈練法師〉と名乗る人々であり、ひそかに古代の秘術の復活を目指しているとも言われる(現在の練法師の状況を考えるに、その計画はかならずしもうまくは運んでいないと考えられているが)。
 封都は、ゴナ砂漠の東部やホータンに見られる古代文明とは明らかに異なる発祥であると見られている。封都にも古代の操兵が存在するものの、それ自体は現在使われている操兵とほぼ同様であり(封都の操兵の方が若干性能が高い。これは、用いられている素材の質の差によるものと考えられている)、ホータンの記録や、ゴナパラムの操兵たちのように身長2リートを超える機体は存在していない。また、封都の操兵は、外から持ち込まれた現在の仮面で稼働可能だったという記録も残されている。

 ツキヨミの一族は、東方の北部に見られる人種と外見上よく似通っている(白い肌、薄い髪や瞳の色など)。骨格などに違いは見られるものの、両人種の祖先はほぼ同じと考えられている。
 彼らは封都を築いた古代の人々の末裔と考えられている。その理由は、彼らが封都に存在する遺産の鍵となっているためである。ハムル・ラバルの侵攻時に都市機能を停止させたのはツキヨミの意思であり、それは彼らだけに可能なことだったとされる。
 ツキヨミは女系社会であり、その信仰の中心である〈真・聖刻〉の祭司は例外なく女性である。真・聖刻の伝承は他の地方にも多く残されているが、ツキヨミの祀っているそれは単なる貴石でできた石碑であり、伝承にあるような力は持たない(かつては巨大な聖刻石が祀られていたとも言われているが確証はない)。
 ツキヨミ出身の人間は、ごくまれに街道筋でも目にすることができる。彼らは相当代を重ねていて、祖先の伝承を守っている人間は皆無と言ってよい。ただし、封都の機能を操る能力はまだ残っているとも言われている。実際、ツキヨミの存在しない封都で、その血筋の人間が隠された機能を復活させたという記録が残されている。

3.中原の歴史(編集中)
 中原はその広大な領域に比べ、暮らす人間の数が非常に少ない。特にゴナ砂漠中央部は一部の集落を除けば定住者は0に近く、したがってこの地域は長い間大きな動きはなかったと言える。
 比較的信用できる記録が残されているのはヤカ・カグラ周辺と、西部の国々だけである。ホータンにはかつて西方や東方の古き国々に比肩する史録が残されていたと言われているが、現在は完全に失われた状態にあるようだ。
 ここでは、街道筋に残るわずかな文献から垣間見える中原の歴史について紹介しよう。

3−1 中原史概論
 ここでは、中原における大まかな歴史について解説する。
 中原に関する史録は非常に数多いが、ここでは、比較的多くの検証がなされているヤカ・カグラの史録と、補足的にハムル・ラバルや西部諸国の記録を補足的に取り上げることとする。

3−1−1 創世記
 各地に残る歴史伝承に共通しているのは、中原はアハーンにおける最古の地だということである。
 ほぼすべての伝承では、世界の始まりについて以下のような記述が見られる。

 天地を創造した神々は、中原の中心、ゴナの地に降り立ち、その地を足場として他の大地を作り上げていったという。
 この際に神々の意志とは無関係に生まれ出たのが〈真・聖刻〉なる存在であった。真・聖刻とは、この世界に現存するすべての聖刻の元となったものであるという。それは天を衝く巨大な輝く石であった。巨石はほどなくいくつかに割れ、それらのうちでも有力なものは竜や巨人に姿を変え、いずこかへ立ち去っていった。残った小片は各地に飛び散り、いまもわずかながら採掘される聖刻石の鉱脈となったという。
 神々の創造はその間も続き、最初は小島程度だったゴナの地は大陸へと成長し、平坦だった地形は現在見られるような複雑なものに姿を変えていった。
 こうして大の月が一周する間に、神々はアハーンを作り上げた。
 だが、広大な大地には、成長するもの、動くものはまだひとつも存在しなかった。そこで、神々は続いて生き物を作り始めた。
 最初に作られたのは大樹だった。名前はなかった。ただ、姿を消した真・聖刻は、その頃まだ存在の余韻を残しており、大樹はその影響を強く受けることになった。
 唯一にして生命の始祖となった大樹は、魔力の源となり、子孫もまたその力を受け継ぐこととなった。
 いったん大樹が生まれ落ちると、世界には堰を切ったように生命が満ち溢れることとなった。現在目にすることができる生物の大半が、この時期に生まれたとされている。
 人間が生まれたのは、さらにずいぶんと時代が下ってからのことである。神々は人をその似姿として生み出したが、その肉体は他の生物に比べてもひよわなものだった。かわりに、神々が人間にあたえたものは知恵だった。万物の根源を解き明かし、神々が世界に対してふるった力の秘密を探り出す。その可能性を、人間たちに与えたのである。
 そのひ弱な肉体にもかかわらず、人間はたちまちのうちに地に満ち、広く大陸じゅうに広がっていった。

 大半の伝承に以上のような内容の一致が見られるのは、現在は分化している伝承がもとはひとつだったという考えが一般的であるが、各地に伝わる説話や史録すべてが単独の出発点を持つという考え方には無理があるとも言える。
 とはいえ、以上の記述が事実であったと裏付ける証拠もなく、さらなる検証が待たれるところである。

3−1−2 古代の中原
 荒唐無稽とも言える神話の時代を過ぎ、人間が文明を築き始めた頃になると、かなり正確な中原の姿が徐々に明らかになってくる。
 少なくとも2000年以上の昔、中原では破滅的な天変地異が起きたことがわかっている。この天変地異がどのようなものだったかははっきりしないが、各地の口伝やヤカ・カグラの史録から、非常に大規模な爆発がゴナ砂漠中心付近で起きたことは確実だと考えられている。
 これは、砂漠のほぼ全地域で均質な鉱物の分布が見られることによる。加えて、砂漠を取り囲む山脈の砂漠側の斜面でも、砂漠を覆う鉱物が見られること、また、場所によっては溶岩が広い面積を覆っていることもその証左と考えられている。
 ヤカ・カグラの史録によれば、その爆発によってゴナの地はもちろん、ホータンを除く周辺地域もほぼ全滅することになった。以降500年近い期間、ゴナは無人の地となり、再び人がこの地に踏み込んだのは現在から約1500年前ということになっている。
 この年数は、記録や伝承によってまちまちで、最長のものは万年単位、最短のものでは数世紀となっている。ただし、過去1000年程度の歴史はある程度正しいとされており、ヤカ・カグラ史録が一番事実に近い記録ではないかと考えられている。
 なお、現在の中原には統一された年号が存在しない。各国が勝手にそれぞれの年号を使っているのが現状であるが、ここではヤカ・カグラ史録に記されている「大異変が終わり、大砂漠(ゴナ)が晴れ上がった。この日をもって〈中原新暦〉元年とする」という記述を基準として年号を設定するものとする。

 人間がゴナ砂漠に再び足を踏み入れた時、すでに封都は存在していたと言われる。一説には、大爆発以前から存在していたとも言い、そもそも天変地異の原因がこの封都とその住人であるツキヨミの一族にあるとする説もある。
 この他、爆発の原因として、

・真・聖刻の巨人、竜の争い
・古代の賢者たちの作り出した秘術が引き起こした
・大樹の魔力の集積が飽和し、爆発的に解放された

などの説がある。ほぼ全ての説には明確な根拠はなく、事実は明らかにはなっていない。

 ゴナの地に最初に興った国家は、サ=ヤンと呼ばれた。フ=イルム、あるいはフェル=ムの名で知られる砂漠の民が中心になって、砂漠の南部、現在のヤカ・シュバリ・インドリ地方の北部に建国されたものである。
 サ=ヤン国は3世紀ほど続いたが、当時すでに存在した大街道から北上した西方からの諸民族によって滅亡した。かわって建国されたのがトルム・アシクである。
 トルム・アシクは、西方の諸民族による合議制で運営された。だが、街道の通行に関する利権をめぐって対立が頻発し、半世紀もしないうちに5つの国家に分裂した。
 トルム国は、西方のアハル人の国家である。トルム・アシクの分裂した国家のうちで最大の広さと、経済規模を誇ったという。
 この国の主な収入は、街道の通行に課す税金と交易によるものであった。街道はほぼトルム国がおさえていたため、残るシングア、リーボリ、アシク・サヤヤン、メコネンヤの4国は、共闘してこれを攻めた。
 さらに、ここに街道の通行権を一方的に主張する西の平原の国家ダースク・サラサンが介入したため、ヤカ・カグラとその周辺地域は一気に大混乱に陥った。
 この戦乱状態は約2世紀続いた。この間、ヤカ・カグラには15もの国家が興り、最終的に残ったのはハルバリ・アーヤンカと呼ばれる部族連合ただひとつだった。
 ハルバリ・アーヤンカは武力に頼らず、交渉術と周辺地域の武力均衡を利用して、戦乱を生き延びた。このため、この国家は不安定な情勢の中、3世紀近く生き延びることになった。

3−1−3 中世の中原
 街道筋がふたたび戦乱に巻き込まれるのは、現在から7世紀ほど前(中原新暦1230頃)のことである。東方、西方で力を蓄えた大国の連合が、ヤカ・カグラで軍事的に衝突したのだ。前代未聞の数の操兵が、ここで戦い、失われたことがヤカ・カグラ史録に記されている。
 ハルバリ・ヤカシク(ハルバリ・アーヤンカ連合が統一国体をとった際に命名された。ただし、この名前でこの国が呼ばれたのは、わずか3年に過ぎなかったという)は東西陣営に取り込まれ、完全に分断されて、わずか半年のうちに滅亡した。戦場と化したその国土は、操兵の大集団(その数、10数万とも言われる)によって蹂躙され、砂漠同然の状態にまで荒廃したという。
 さらに、この戦いに乗じて、東方ヤシンカク国がフラバル国(現ハムル・ラバル。フラバル国の国名には諸説あり、〈後フラバル〉とするのが正しいとするものもある)に侵攻し、これを滅ぼしている。ヤシンカクは東方内部の混乱により国土の1/3を失い、その争いから逃れるようにアグ河を渡ってフラバルへと攻め込む結果となったのだった。
 フラバルという東の重石を失い、ヤカ・カグラの混乱にはさらに拍車がかかることになった。
 四半世紀にわたるこの戦乱状態を終息させたのは、ホータン王国による介入(1259)であった。白き王の名のもと(ただし、偉大な業績を残したホータン王には白き王の名が諡されるため、伝説上の白き王と同一人物かどうかは不明)、東西の軍勢に申し入れた仲裁案は、完全に出口が見えなくなっていた両陣営にとって渡りに船だったと言われている。
 この仲裁案は、東西のヤカ・カグラからの撤兵と、同地域を緩衝地帯としていかなる国家の成立も許さないこと、それを破った場合は、東西の国家の代表者によって組織された調停会議によって制裁を受ける、というものである。これは〈白き王の調停書〉の名で現代にも伝わっており、ドウシャの街でその写しを見ることができる。
 この調停の結果、ヤカ・カグラ周辺は中立地帯となり、小規模な宿場町だけが存在を許されることとなった。以来、目立った大きな戦いは、この地域で起きたことはない。

3−1−4 近世の中原
 単なる騎馬民族の集団でしかなかったリンガ・ナ山脈以西の国々が、西方の国々の影響下、急速な近代化を遂げたのがこの時期である。
 リンガ・ナ西平原と呼ばれる土地は、広大な起伏の少ない荒れ野がほとんどを占めている。小さな河川や湖沼はあるものの全体的に水の入手が容易ではなく、農耕に不向きのため、この地に定住する人間はこの時期までほとんど存在しなかった。
 古代にその名前を見ることができるダースク・サラサン国は、大街道の南に興った国家で、西方からの移民が国民の大半だったと考えられている。一方、街道の北に広がるリンガ・ナ西平原は、遊牧と狩猟で暮らす人々がほとんどで、民族や国家といった横のつながりをほとんど持たなかった。
 彼らが国家という概念を獲得するのは、西方からの入植者がリンガ・ナ西平原に立ち入るようになってからのことと考えられている。西方の宗教とさまざまの知識、技術の流入によって、彼らは平原に都市を築き、有力な首長を統治者として国家としての体を作り上げていった。
 リンガ・ナ西平原に騎馬民族の大帝国が出現するまで、それから2世紀とかからなかったと言われている。ブシャク・ハルザ大冠国として知られるそれは、北はカッチャナラ西部山脈、南はレアーシボ西岸からシャクティ山脈西部まで、東はリンガ・ナ山脈から西は西方と中原の境界に位置するロード平原東端までの、中原のほぼ西半分に及ぶ広大なものであった。
 だが、この広大な国土が統一国家のもとにあったのは、わずか四半世紀程度のことだったとされている。初代冠主(騎馬民族の王)ソー・トル・ブシャクは即位後20年ほどで没し(1665)、その後に起きた後継者争い(ソー・トル・ブシャクは10人近い男子をもうけていたにもかかわらず、驚くべきことに後継者を指名していなかったようだ)によって、国土は5分され、トー・オー冠国、イリキア冠国、プレブル冠国、ナゼア国、イギア神国が成立した。
 このうち、プレブル冠国はリンガ・ナ西平原北部を版図としたが、建国後わずか3年にして冠主オルトリ・プレブルが暗殺され、その後後継者争いで混乱をきたして国体が崩壊、半世紀後にはかつての遊牧民と狩猟民がばらばらに暮らす未開の地へと戻っている。
 その後、この地には幾度か国家が成立しているが、すべて半世紀持たず崩壊している。こうしたいきさつもあって、この広大な地は『呪われた平原』と呼ばれ、以来現在に至るまで、公式には国家の支配を受けていないとされる。

 西部地域の動きを受けて、ヤカ・カグラの情勢も大きく動いている。
 この時期、国家の再編によって多くの難民や移民が発生し、街道を伝ってヤカ・カグラに流入した。こうした人々の中の何割かは、ある種の技術者や思想的背景を持つ人々だった。
 結果、宿場町の周辺には多くの集落が築かれることになった。多くの宿場町には、職能に応じた小集落が付随するが、これはこの時期にできたものがほとんどであるという。
 宿場町の拡大でも受け入れきれなかった人々は、さらに東へと流れていった。
 この混乱期に乗じて、かつてのフラバルの民が再興を果たしたハムル・ラバル帝国は、国家体制がまだ未成熟であることを逆に利用し、こうした難民、移民を受け入れ、その労働力とした。もともとの国民がほとんど遊牧民で、都市部に定住する人間はごく少数に過ぎなかった帝国にとって、この労働力の流入は嬉しい誤算であった。
 民族的な軋轢はあったものの、フラバル時代からそうした問題の解決策を学んでいたこともあって、ハムル・ラバル帝国は巧みに近代化への道を進んでいったといわれる。
 一方、オ・ルサンテ山脈の麓を通り、ゴナ砂漠周辺へと踏み込んでいった人々もけっして少なくなかった。このとき、大半の人々はホータン王国に落ち着き、大きく人口の落ち込んでいたこの国を復興させる助けとなったと見られている。
 これは、現在のホータンに暮らす人々が、文献上ホータンの民とされてきた人種の外見的特徴とかなり異なっているからである。現在のホータン人たちが西の国々の外見に近いことも、この説を裏付ける根拠となっている。
 もっとも、異民族の流入によって、ホータンに伝わってきた歴史的資料や遺物の大半が失われたことも事実である。ホータンの遺跡や文書は歴史的価値が高いことで知られており、この時期に被った歴史的損失の大きさは計り知れない。
 さらに残った人々は、砂漠へと入り込んでいったと見られる。砂漠西部や北部の集落は、明らかにこの時期に築かれたもので、混血によって外見的特徴は薄れているが、文化的に西部のそれが多く見られるためである。
 また、思想的に国家を追われた人々ほど奥地に向かう傾向が強かったため、北部山麓の集落では意外にも高度な教育が行われていた形跡が見られる。また、北部で独自の操兵が見られることがあるのも、この時期に思想的問題で追放された操兵鍛冶が移住したためだと考えられている。

 一方、この民族移動の結果、大規模ではないが各地で争いが頻発したのもこの時期の特徴であろう。
 有名なところでは、宿場町間の水源抗争(1680頃〜1692)がある。急速な人口増加のために逼迫した水資源の確保のため、街道上の宿場町間で長期間にわたる紛争が続いたというもので、10年以上にわたる軍事衝突と、宿場町間の交流の断絶によって、大街道周辺の経済活動が著しく低下したと言われる。
 特に、大街道の通行が大きく滞った結果、経済活動の停滞は中原のみならず東方、西方にも及んだという。特に西方では、これが引き金となって各地で経済恐慌が起きたとされている。
 この戦乱の時期を経ることによって、中原には飛躍的に操兵の数が増加することになった。水源匠合の抱える操兵は、西部の大国の1/3(3000機以上)にも及んだとされ、現在はその半分程度に落ち着いているものの、水源匠合の権力を強化する基礎となった。
 その最大の恩恵を受けたのが、ハムル・ラバル帝国であろう。東方の国家ヤシンカクによる長い支配を打ち破り、かつてこの地に存在したというフラバル国の民を名乗る人々が新たにハムル・ラバルの名で国家を再興したのは1702年のことである。
 ヤシンカクはアグ河周辺の地を失い、この13年後滅亡している。

3−1−5 近代の中原
 中原新暦1830年、ヤカ・カグラ北部に武装勢力が侵入する。シンヴァ・アルグラと名乗ったその一団は、中原西北部にあったプレブル冠国の正当後継者を名乗った。
 シンヴァ・アルグラは、さほど大きな規模ではなかったものの、精強の集団で操兵を巧みに使ったため、当時の水源組合の操兵団も歯が立たず、ドウシャ、ベカラグが一時的に占領されている。
 結局、フリーヤなどの宿場町からの救援と、ハムル・ラバル帝国からの兵団派遣によって、かろうじてドウシャとベカラグが解放されたものの、シンヴァ・アルグラはドウシャ北の西オ・ルサンテ山麓に奪った資源で根拠地を築き、なおも街道周辺を狙う姿勢を見せた。
 だが、以降、この武装集団が歴史上に姿をあらわすことはなかった。シンヴァ・アルグラが北に撤退して数週間後、その根拠地を訪れた人間によれば、その場所は単なる廃墟と化しており、生存者はなく、数百機は存在したはずの操兵も1機も残っていなかったという。
 その時はさらに奥地へ撤退を図ったものと思われたが、結局それ以降シンヴァ・アルグラらしき集団は一切確認されていない。

 この時期、シンヴァ・アルグラに前後して、いくつか武装集団がヤカ・カグラの地への侵攻を図っているが、いずれも宿場町の兵力に撃退されるか、侵入を試みた形跡はあるものの、忽然と集団そのものが姿を消したという記録が多く残されている。
 近年になって、これらの出来事の背景には〈白き王の調停〉における〈調停会議〉の影響があったことが明らかになっている。
 そもそも、調停会議という組織は、調停書の文言上に書かれただけの概念的な存在だと考えられてきた。それが、6世紀近くの間、存在を秘匿されつつ組織として機能し続けてきたという事実は、多くの研究者たちを驚かせた。
 存在こそ公になったものの、依然として現在までこの組織の実態は明らかになっていない。ただ、シンヴァ・アルグラの顛末から考えるに、大国の一軍に匹敵するかそれ以上の軍事力を持つと推測される。

 1800年代初頭、西部諸国にふたたび大きな動きが起こる。
 最初に安定した体制を固めることに成功したトー・オー冠国は、ブシャク冠国へと国号を改号した。この勢いをかって、隣接するイリキア冠国へと侵攻、旧ブシャク大冠国一派と結んで西半分の国土の併合に成功する。
 イリキア冠国は混乱の末、西方系の民族の主導で新たな王国を樹立し、イリキア峡谷王国と改号した。この後、イリキアでは徹底した旧ブシャク派狩りが行われ、国民の1/5にあたる人々が追放、あるいは処刑されたという。
 現在に至るまで、ブシャク、イリキアの両国の対立は続いている。
 イリキアは、失った国土を東に求めようとした。ナゼア国、イギア神国は比較的安定した国体を保っていたが、この危機に結束し、両国の国家元首の婚姻をもってナゼア・イギア連合となった。厳密には両国はそれぞれ独立した国家ではあるが、経済的には完全に一体化しており、事実上ひとつの国家として見られる場合がほとんどである。
 ナゼア・イギア連合は、旧ブシャクと西方人が融和した国家であり、西方のペガーナ神教を信仰している。このため、カルバラ教を国教とするブシャク、およびイリキアとは信教の上でも対立関係にあり、イリキアはもちろん、ブシャク冠国とも正式な国交関係を結んでいない。
 この3国の緊張状態のためもあり、中原西部には大量の操兵が存在する。各国は操兵鍛冶を進んで雇い入れ、独自の鍛冶匠合を組織して、現在も大量に操兵を作り出している最中である。
 長い間、中原に存在する操兵の数は東方、西方に遠く及ばないと考えられてきたが、現在では数、質ともに東西の先進地域を凌ぐ勢いとなっている。

 1900年代に入ると大街道の往来が活発化し、ヤカ・カグラが西部諸国に匹敵する一大経済圏へと成長する。特にハムル・ラバル帝国は、ごく短い期間ではあるが、大陸でも屈指の経済大国となった。ハムル・ラバル貨はこの時期に大量に鋳造され、大街道で最も流通し、信用のある貨幣となっている。
 その後、西部諸国の安定にともなって、経済活動の中心は西へと動いていくが、大街道における経済拠点としての役割は変わっていない。
 国家再興のための混乱期を除いて、ハムル・ラバル帝国は、中原でももっとも安定した国家となった。これは、ブシャク大冠国のように、それぞれに長い歴史を持つ多民族が集まったものとは異なり、他国の支配下から団結して国土を取り戻し、民族的まとまりよりも国家的団結が強い雰囲気を作り上げることに成功したためだろう。フラバル時代からの民も少なくはないが、その大半が遊牧民の暮らしを続けており、定住して経済活動を行なっているのは他の地域から移住した人々であるため、伝統にこだわる人間がほぼいなかったことも大きな要因である。

 近年(1944年〜)になり、西部3国間の緊張が高まりつつある。これは、ブシャク冠国の政変に始まる一連の国境紛争から、ヤカ・カグラを巻き込んだいくつかの事変に起因するもので、現在も東方、西方の国家群が介入する形で状況が悪化しつつある。
 ブシャク冠国の政変は、カラサン・ブシャク冠主の急死に端を発する、重臣ナージャク・ブルナーの摂政就任、冠主一族の放逐、イリキアとの国境への兵力増強へと続く一連の出来事をさす。
 ブシャク冠国の不安定化は、隣国イリキアはもちろん、ナゼア・イギア連合、ヤカ・カグラ周辺にも大きな影響を及ぼした。特に、かつてブシャク大冠国の分裂によって多大なる被害を受けたヤカ・カグラでは、西部諸国の不安定化を警戒するあまり、大街道の交通制限や交易品の全品にわたる検査など、過敏な反応を見せることとなった。
 西方のジュンシェンガ騎士団操兵3000機がブシャク冠国に入ったのは、1944年4の月のことだった。両国はひそかに協定を結んでおり、ナージャクの要請にしたがってこの派兵を行なったとされる。
 ジュンシェンガ騎士団の主張では、この派兵は西部地域の情勢を落ち着かせるためのものであり、積極的な国境侵犯を行うことはないということだったが、少なくともイリキアやナゼア・イギアの人間で、これを信じる者はほぼいなかった。
 ジュンシェンガは西方の東端に位置する中規模の国家だったが、3000機の操兵ともなれば国内の守備用の機体まで持ち出しても到底足りない数であり、この件の背景には西方でも比較的大きな勢力が絡んでいると考えられている。
 一方、同年6の月には、ハムル・ラバル西部で、東方西端のヒョウゼン国の操兵が確認されている。ブシャクのジュンシェンガとの距離は、ほぼ中原を横断するほどであるものの、大街道全域をかつてない緊張が支配しつつある。