聖刻シリーズが初めての方は、まず最初に『聖刻シリーズとは』『聖刻日記 #3』などをご覧いただけると、以下の文章がよりわかりやすくなるかも。ならない可能性も否定しませんが。
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さすがにこれで終わりと思いたいですが、とりあえず前の日記の続き。

というわけで、近代的な操兵が登場した5〜6世紀のあたりは、まだまだ操兵の数が少ない状態にありました。個々の能力は、腕利きの鍛冶師がつきっきりで作り上げた一品物ばかりなので、9世紀の操兵にも見劣りはしないものでしたが、操手によって扱いやすさが全然違ったり(これは9世紀でもその傾向はあったが、この頃の機体ははるかに厳しかった)、とにかく癖の強いものばかりだったようです。
結局、仮面の持つ個性を最大限に引き出しているおかげで、歪みも最大限になったという感じです。
逆を言えば、年代が下るにつれて操兵の個性は極力平滑化され、扱いやすくなったかわりに能力は本来のポテンシャルを抑えられた状態にされたわけです。
古代に作られた操兵を古操兵と呼ぶことがありますが、これらの操兵に強力なものが多いのも、仮面そのものが紀元後の操兵より格上であると同時に、仮面に完全に適合した機体を持つからであると考えられています。

近代の狩猟機にも、古操兵級の実力を持つ一品物はいくつか存在することから、鍛冶組合(工呪会)には現在もそうした技術が存在していることは自明です。にもかかわらず、近代操兵はその大半が能力を制限し、作りやすく、かつ扱いやすい機体になっています。
これは、操兵の受注数が近代になって爆発的に増えたことがその背景にありました。国家が近代的な軍隊を編成するようになり、どうしても短期間で一定の水準を持った操兵を準備する必要があったからです。
黒竜戦争の呼び名で知られる黒の帝国と北部列強の戦い以降、操兵に求められるものは飛び抜けた能力より数へと変わっていきましたが、それ以前に必要からすでに生産ベースでそうした変化が起きていたわけです。
それが実際に戦術、戦略面で適用されるようになったのは、黒の帝国のギ・ドアーテ以降ではあるのですが。

このせいもあってか、9世紀以前にはいくつも大きな戦争が起きていたにもかかわらず、戦場に操兵が持ち込まれた例はさほど多くはありませんでした。
西方を二分したとまで言われる、歴史に名高い〈聖拝戦争〉でも、操兵による大規模な集団戦の記録は残されていません(もちろん記録にない戦いも非常に多いが)。この戦争そのものが、西方最大の宗教であるぺガーナの内戦だったため、操兵が使われる機会が少なかったこともあります。僧侶は、聖刻に関係する存在に関わることが許されないからです。
ぺガーナにも僧侶の称号を与えられた一般の兵は存在しており、そうした人間が操兵騎士団を組織していました。ですから、治安維持などで操兵が持ち出されることは少なくありませんでしたし、騎士団の名の下に戦いが行われることも珍しくありませんでした。とはいえ、こうした戦いでも、多くは一騎打ちかせいぜい数機同士が対戦することがほとんどで、操兵による大規模な戦闘が行われることはなかったようです。そもそも、騎士団の操兵保有数はそれほど多くはなく、またペガーナにとって操兵による戦いは彼らの権威を高めるものではなかったからでしょう。

日下部匡俊