ここが初めての方は、『聖刻シリーズとは』、『聖刻日記 #3』などを一度ご覧ください。
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これでひとまず終わり。
じゃあ、列強諸国はなにをやったかというと(正確にいえば列強の中でも国力の一番低いソーダリという国が口切りでしたが)、インフラの徹底的な整備です。まああまりにも順当すぎて面白くないところですが、結局この手のことに特効薬なんかないので。インフラの整備がそれだって話はありますが、そう呼ぶには手間と金と時間がかかりすぎるわけで。
まず、彼らが最初に何をやったかというと、道路の整備でした。主要な幹線道路には操兵の通行に耐える舗装がなされ、補給の拠点となる要塞がいくつも新設されました。そのままでは侵入した敵も利することにもなるので、要塞を拠点とした防衛網と、短時間のうちに道路を通行不能にする仕組みも作られました。
ほぼ同時にとりかかったのが、通信網でした。といっても画期的な方法を編み出したのではなく、従来の方法を強化、確実性を重視したものに整備し直したという格好です。例えば、早馬などは途中で交通上の障害が発生すると情報が遮断されたり、大きく遅れるなどして使い物にならなくなりました。また、狼煙は情報の発信が敵にもわかってしまう上に、悪天候の際には非常に使いにくくなります。
これらの欠点を克服し、かつ伝達速度と確実性の向上をめざして、これらの手段にさまざまの改良が試みられました。
まず、早馬の伝令の騎士団内部での階位を大きく引き上げました(階位の名称は国ごとに違うので一概には言えないが、兵卒クラスから佐官級に上げた)。これに伴って、伝令の適性審査が厳格化し、報酬は数倍以上に跳ね上がりました。退役後の保証も手厚いものとなり、情報を扱う将校は操兵の乗り手、すなわち操手かそれ以上の待遇となったわけです。
さらに、伝令の数が数倍に増えたことも付け加えておかねばならないでしょう。短距離の移動を複数経路確保することで、情報伝達の確実性と速度を担保しようとしたわけです。
狼煙は打ち上げ花火に置き換えられました。強い発光と音を伴うもので、伝えられる情報量は少ないものの、確実性は向上しました。緊急手段としての狼煙も残りましたが、そうならないように花火の準備は徹底され、また信号の意味はごく短期間で無作為に変えられていきました。
このほか、伝書鳥も普及しましたが、これは緊急性の低い伝令に限られました。鳥獣を使う伝令は確実性が低くなりがちだったからです。
ここまで読まれて、「練法師の〈遠話〉は?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません(練法の遠話の術は、情報伝達に時間がかからず、直接遠隔地の術者同士が会話可能)が、西方では練法師は一般的な存在ではなく、また権力者とは別の存在に忠誠を誓う傾向が強かったため、ごく一部の例外を除いて彼らが使われることはほとんどありませんでした。黒の帝国には練法を使う間者の存在が確認されていますが、これは例外中の例外です。ただし、私兵として個人的に契約を結んだ練法師はいたようです。
のちに黒の帝国の操兵〈ギ・ドアーテ〉が鹵獲され、その発光通信の仕組みが知られるようになると、列強諸国は光による通信機構の構築を試みるようになります。これが実用化されたのは、西方暦800年代中盤以降でした。ただしこれも確実性に乏しかったらしく(強力な発光機構が作り出せなかった)、補助として用いられたにとどまったようです。
従兵機が狩猟機より優先して調達されるようになったのは、こうした交通、情報の整備が一段落ついてからのことでした。といっても、ほんの2、3年の差でしかありませんが。
こうした従兵機には、とにかく価格が安く、故障に強い頑丈な構造が求められました。動きは多少鈍く、戦いに不向きであっても、荷役用として使えれば十分だったのです。こうした従兵機が牽引できるように特別製の荷車も開発されました。
荷役用従兵機はほぼ武装されていませんでした。かわりに、起重機を扱えるように特化された構造を持ちました。起重機を組み込まれた機体も試作され、軟弱な地盤でも安定した姿勢を保てる脚部も考案されたようですが、生産性、運用上の問題から後付けに統一されたようです。
それまでも補給に従兵機を使った例はありましたが、専用に作られた操兵による補給部隊は、前線の状況をかなり改善したようです。輸送能力の改善と、敵の襲撃に対する防御力の向上が主な理由です(隊列の構成には、黒の帝国のとった操兵による集団戦術が取り入れられ、組織だった操兵による襲撃にも救援なしで耐え切った例がある)。
西方暦800年代中盤の南部大戦では、この効果が早速あらわれ、当初ラウ・マーナ連合優勢だった戦局を覆したほどでした。また、第2次黒竜戦争を情報戦によって未然に防いでいます。
情報伝達の高速、確実化にともなって、それまでごく限られた人間のみが持つことができた戦略的思考が広まることとなり、こうしたインフラ整備から10年ほど遅れる形で、戦場の様相も大きく変わっていくことになります。操兵の製作は相変わらず個人の技量に負うところが大きかったので、生産量が爆発的に向上することはありませんでしたが、能力の高い狩猟機の比率はこのあたりを境に少しずつ下がり始め、従兵機の占める量が増えていくようになります。
それも、西方暦900年代に入って訪れた1世紀以上に及ぶ平和な時代を経て、操兵はふたたび狩猟機(平和なので、美術骨董的な扱いで狩猟機が珍重された)主体の時代へと移っていくのですが。
日下部匡俊
あー、全然足りてませんが、いい加減長くなったのでこの話はここまでってことで。また書くことがなくなったら、切り口変えて書くかもしれません。その時はまたよろしくお願いします。いやーいくらでも書けるよな、これ。