梗醍果終わりました。なんか新規性出そうとしてて大変っすね(他人事)。
もう神がどうとか隠そうともしてない。それ以上にあのお方が……あんなんだったっけ、すげーなー()
なんかもう、いわくありげに出てきた伏線が終章でバッタバッタと回収されていくの、病的なものさえ感じますが、あれちゃんと後の展開まで考えて出してたのかなー。
読んでると一応考えてたようですけど。でもまあ、いつもの要領で伏線張るだけ張っておいて、流れで繋いでいく方式でなかったとは言い切れない。
ま、書いた人間がなに言おうと、結果として出来上がったものが全てなんですけどね。舞台裏なんてノイズでしかない。第3シーズンの敵が「どうせあいつなんだろ?」って編集Iさんに言われて、なんらかの方法でそいつを出そうかと思ってたのを急遽変更したとか絶対に言えない。言ってるじゃん。
お話書く上でキャラ立てをものすごく意識させられたのは、じつはそのずいぶん後になる某ノベライズ(ナルなんとかじゃない方)あたりなんですが、ワースでもやることはやってたんだなあって、自作をここまで読み返して今更ながらに思います。むしろ変にキャラ立て意識するといいことないような気がしてならない。自分の場合は、ですが。
そういや昨日の夜中、現代のトキワ荘と称する場所でマンガのアイデアを考えている外国の人の話とか見てたんですが、あのやり方(お定まりのキャラ立てから行動を規定していくパターン。方法論としてはもちろんど正統なんですが)じゃあ作家さん萎縮するだけじゃないのかなーとぼんやり思いました。OKもらうために自分を殺して言われた通りにやっても、そこからちゃんとしたものが生まれるとはとても思えない。
なんかああいう決まった型でやらされると、発想そのものが萎縮しちゃうんじゃないかなあって。職人タイプの作家さんは別かもですが、そういう人はああいう場にはいないし。ふつう。
それよりはもっと自由に発想させて、出てきたアイデアからいけそうなのを選びつつ、あとは微修正に留めながら誘導していくってやり方ではいかんのかなあとぼんやり思いました。
や、自分でやりたいことっていうか、それが一番重要じゃないかって。それがどうやっても使える方向向いてなきゃしょうがないんですが(その時は、その人の嗜好が合う場所に移ればいいわけです)、たくさん話を引き出して、その中に使えるのがあったらそれを伸ばしていくって間違ったやり方じゃないと思うんだけどなあ。アイデアによってはキャラ立て重視なのか、背景や事件から登場人物を規定していくやり方の方がいいのか変わってくるんで。
その番組の中の人はヒット作連発して一時代築いた編集さんとその部下の人たちなんで、こと商業マンガに関しては自分なんかより正しい方向いてるんだとは思うんですけど。
でもまあ、どんな結果になるにせよ、自分の信じてるものを貫き通した方がマシなんじゃないかと思うわけです。結局作品を楽しむ上で制作上の方法論なんかどうでもいいわけで。それよりはその人の持ってるクセを全面に出した方がはるかに多様性持たせられるし。どこで読者の心の琴線に触れるかわからない以上、多様性大事。
最近ジャンプ方面見てても、そういう方向で描かれてる作品増えてきた気がするんですけどね。
うーん。ま、あれだ、偉そうなこと言うなら結果で示せってことですよね。いやまったくだ。
日下部匡俊
一昨日(20日)、道歩いてて日差し浴びたら暑かったんですけど、明日雪降るかもって話なんですよ。もうどっかおかしいですよね。いや、いままでの気候が平穏すぎたって話もあるらしいんだけど。